2017-05

    歴史と身体 新しい歴史的時代の始まり1

    4月24日

    ツイッターの投稿内容がそのままブログに反映されるので記事の更新は頻繁に行われている。だが、ブログ用の記事の更新はあいかわらず遅い。いつも記事を読んでくださっている読者の方々に感謝する。

    ツイッターを始めました!

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    船井幸雄.com
    ヤスのちょっとスピリチュアルな世界情勢予測

    「ヤスの勉強会」第2回のご案内

    対話型のセミナーの「ヤスの勉強会」の第2回目を開催します。内容は第1回の続きで、「集合無意識の変動と社会の動き」の相関関係を詳しく見ながら、今後の予測を組み立てます。話す内容は、は4月に入りましたらどんどん書いてゆきます。

    主な内容(講演会が近くになるとどんどん加筆します)

    ・われわれの集合無意識の内容とはどんなものか?
    ・これからどんなブラックスワンが解除されるのか?
    ・5月は正念場、強い情念の波がヨーロッパを覆う
    ・集合無意識の解除はどこに向かうのか?
    ・おそらく中国は分裂しない。むしろ統合力が強化される
    ・日本の近未来は?

    よろしかったらぜひご参加ください。セミナーの詳しい内容は近くなったらお伝えします。

    日時:5月17日、土曜日
    時間:1時半から4時前後まで
    料金:4000円
    場所:都内(おそらく東横線沿線)

    いまのところ場所は未定ですが、申し込みいただいた方に直接お伝えいたします。以下のメルアドから申し込んでください。

    記載必要事項
    名前(ふりがな)
    住所 〒
    メールアドレス
    参加人数
    懇親会の参加の有無

    info@yasunoeigo.com

    記事全文を音声ファイルにしました。よろしかったらどうぞ。7日で削除されますので、お早めにどうぞ。

    音声ファイル

    新刊本です!ハンク・ウエスルマン博士との対談が収録されています!ぜひどうぞ。
    koufuku

    また本が出ます。すごく面白い本だと思います。よろしかったらどうぞ!

    日本、残された方向と選択~緊急分析!! 近未来の予測・予言を大解明!
    houkou

    むちゃくちゃうまい醤油!

    筆者は、隔月で高松の経済団体で講演会を行っている。そのとき、高松で評判になっているおいしい醤油のことを教えられた。小豆島の醤油である。早速、注文して見たが濃厚な味でものすごくうまかった!世の中にはうまいものがあるののだと思った。よろしかったらどうぞ。

    金両醤油

    お知らせ

    5月21日、ウエブボットの報告書の最新版が発表になりました。いま詳細な要約の作業を続けていますが、これまでのように「予言解説書」のような体裁で出すことはしないことにいたしました。詳細な要約はすべてメルマガに発表いたしますので、最新報告書の内容を知りたい方は、メルマガを購読なさってください。

    今回の有料メルマガのご紹介

    いつものように、本日、24日の午前0時10分にメルマガを配信する。

    今回の内容は、1)TPPがこれからどうなるのか、2)ウクライナ紛争が引き起こしたヨーロッパ極右の台頭、3)UFOのコンタクティー、ビリー・マイヤーの2013年6月に行われた最新のコンタクト記録である。

    やはり、今回のウクライナ紛争はこれから歴史の流れを根本的に変化させるスイッチの役割を果たした。ヨーロッパの極右と右翼はプーチンを圧倒的に支持している。これらの党派はどの国でも大躍進しており、5月に実施されるEU議会の選挙では、3分の1の議席さえ獲得するという極端な予測まである。

    おそらく5月以降、多くのブラックスワンが動き出すことだろう。


    今回の記事

    いま新しい本の構想を練っている。やはり、いまこれまでにはない歴史的に新しい時代に入りつつあるとの実感が強く、それに伴って強い危機感を感じている。

    この危機感の内容は講演会で解説させてもらっているが、今回はこの危機感の正体を捕まえるべく、実験的なエッセーを何回かに分けて掲載する。

    また、一部過去のブログ記事にすでに掲載した部分がある。

    これは構想がまとまった段階で、本にするつもりである。いまのところ、内容はかなり抽象的で難しく感じるかもしれないが、読んでいただけるとありがたい。

    身体に刻印された歴史
    ~未来が作られる現場~
    高島康司


    我々という存在は思った以上に自由な存在ではない。おそらく、我々の認識や行動、そして感情の在り方までも、我々が生活している社会的共同体の歴史が刻まれた集合的な記憶によって深く規定されていると見た方がよい。これらの記憶は、意識ではコントロールすることが難しい身体的な反応として存在している。いわば社会の歴史は身体に刻印されていると言える。

    アレキサンダー大王

    これがどういうことなのか少し分かりやすく説明して見よう。1980年に撮られた「アレキサンダー大王」という映画がある。「旅芸人の記録」などで知られているギリシャの著名な監督、テオ・アンゲロプロスの作品だ。見たことのある読者も多いかもしれない。

    アレキサンダー大王の異名をもつ男に率いられた20名の盗賊が脱獄に成功し、故郷の村に戻るというストーリーだ。村に帰る途中、アナーキストを自称する5名のイタリア人が一同に加わる。

    ところが帰村してみると、村は「先生」と呼ばれる指導者が管理する原始共産制の村に変化していた。「アレキサンダー大王」はこれに不満をもち、村民の支持を次第に集めると、「先生」から村をのっとることに成功する。すると今度は、「アレキサンダー大王」による村の独裁的な支配が始まる。しかし、「アレキサンダー大王」とその一味は警察から追われる身であり、村は政府軍によって包囲され、「アレキサンダー大王」は忽然と姿を消す。このようなストーリーの映画だ。

    映画は、共産主義と独裁制という2つの極端な政治勢力に分離して展開した20世紀初頭のギリシャの政治状況を、象徴的に表現しているとされる。

    しかし、映画の日本公開にともなって来日したアンゲロプロス監督は、インタビューで、ギリシャ人の民族性に内在している共産制を希求する思いと、独裁制に魅了されてしまう情念とのぶつかり合いを描写したかったと言っていた。

    意味産出の普遍的な構造

    なぜアンゲロプロス監督はこのようなテーマを象徴的にとりあげたのであろうか?その答えは、監督の知的な背景にあるようだ。

    監督は、フランス構造主義の創始者のひとりであり、人類学者、レヴィ・ストロースのゼミの出身だ。構造主義は、言語、芸術、科学など人間が作り出した意味をもつあらゆる対象の背後に、意味の産出を規制する形式的で普遍的な法則を見いだし、この法則から対象の意味を俯瞰的に把握する方法である。

    あらゆる対象が、形式的な意味産出の法則で説明されてしまうことは大変な魅力であった。この手法が文学などの芸術の分野に適用されると、作品の「意味」の解釈は、作者の主観性ではなく、客観的な意味のシステムに関係付けられる。これは、作品に感情投影することによってはじめて意味が理解できると信じ込んでいた多くの人々にとって、大きな驚きだった。あらゆる作品の「意味」が、作者の主観的な感情ではなく、意味産出のシステムという、実に形式的で客観的な構造へと解体されるのだ。もはや作品の「意味」を読み取る行為は、作者と感情的に一体化し、作者の意図を解釈するという主観的な読み取りの行為ではなくなった。それは、作品の背後に形式的で普遍的な意味の産出構造を析出するという一連の「作業」になった。

    構造主義、またその後に現れたポスト構造主義の絶頂期には、形式的な構造へと還元される対象は、人間の産出物である「作品」をさらに越え、産出者である「人間そのもの」へと拡大した。

    人間が言語を使うということは、言語系というあらかじめ存在している社会的なシステムに人間か組み込まれることを意味している。言語系をシステムとして見ると、システム内にはメッセージの発信者である「わたし」と、メッセージの受信者である「あなた」という2つの場所が存在している。人間が「話す主体」になるためには、このあらかじめ存在している場所に組み込まれなければならない。

    言語を使用する以前の人間は、自我と意識がない無主体の存在である。それは、生存(エロス)と死(タナトス)の2つの欲動のエネルギーが身体を循環するだけの、生物機械に過ぎない。そのような人間が言語系に組み込まれることで、人間は「私」となり、それを内面化して自我が形成される。自我は言語系の産出物である。

    人間はこのように、あらゆる作品が「構造」と呼ばれる意味の産出システムに解体されると同じ意味で、言語系に解体される。畢竟人間とは、言語系という普遍的な構造の副産物に過ぎない。それ以外のいかなる内実も、根拠のない思い込みが生んだ幻想だという。

    社会集団の集合無意識

    これが、構造主義が華やかなりし頃の人間の認識であった。アンゲロプロス監督が「アレキサンダー大王」で描きたかったのは、人間とはこのような普遍的な形式によって産出されるような存在ではないということであった。監督が主張したかったのは、そうした普遍的な層のさらに上層には、民族や言語共同体といった社会集団に固有の心理の構造が存在し、人間はそれらによって根本的に規定される存在なのだという点であった。

    映画の「アレキサンダー大王」は、ギリシャ人であれば集合的に共有している「父」の原像、ないしは、すべてを支配する一方、追随者は庇護下におく「独裁者」の元型を象徴している。そして、窒息しそうな「独裁制」から自由になるためのアンチテーゼが、共産制への希求であった。ギリシャ的な集合無意識には、父のような「独裁者」に魅了される情念と、これに反抗して一切の個人の突出を許さない共産制に対する強いあこがれが共存している。

    これが、ギリシャがトルコの支配から独立した19世紀以来、独裁制と革命の歴史を繰り返すことになった基本的な理由ではないのか。アンゲロプロス監督はこのようなことを言いたかったようである。これが歴史で繰り返される再帰的なパターンであるとすれば、それは社会の「カルマ」と呼ぶしかないものだ。

    いわゆる集合無意識でもない

    おそらくどの社会にも、社会集団に独自な集合無意識と、それが形成する歴史のパターンとしての「カルマ」は厳然として存在しているはずだ。しかしそれらは、構造主義の意味産出システムのような普遍的な系では説明がつかない。また集合無意識と言えば深層心理学者のユングが提唱するいわゆる集合無意識の概念を思い起こさせるが、この概念だけでもおそらく説明できないはずだ。

    ユングは、人間の心は意識、個人的無意識、そして集合無意識の三層構造になっているとした。意識とは、自我が認知できる心の領域だ。意識して行う行動や思考はすべてこの領域に属する。次の個人的無意識とは、トラウマや隠された欲望など、意識の領域に入ることを排除され、抑圧された内容が蓄積される心の領域である。これはフロイトの無意識の概念とほぼ同じものだとされている。

    そしてそのさらに奥底にあるのが、集合無意識である。集合無意識とは、人類が進化の過程で蓄積した歴史的な記憶の巨大な集積地である。これらの記憶は、元型と呼ばれるイメージのパターンに組織化されている。元型は、男性の理想的な女性像の「アニマ」、女性の理想的な男性像の「アニムス」、暗い破壊的な欲動を表す「影」、すべてを受け入れる母親の理想像の「太母」、深い知恵の源泉を表す「老賢者」、そして意識と無意識の対立を仲介し、心の統合された包括的な姿である「自己」などである。意識の中心の「自我」も元型のひとつであるとされる。

    こうした元型には特有のイメージが内在している。例えば「自己」であれば、世界の宗教が内包している仏や神のイメージが対応しているとされる。

    また元型にはイメージともに、とても強い情動のエネルギーが結合している。元型が活性化すると、元型は意識に侵入する。それが起こると、人間は元型のイメージを実際に存在している対象に投影し、元型と現実に存在する対象との区別がつかなくなる。たとえばアニマの元型が活性化すると、投影の作用によって、男性は目の前の女性を自分の理想の女性だと思い込んでしまう。そうすると、強烈な情動が込み上げてきて、意識の力ではコントロールできなくなってしまう。ユングは一目ぼれは活性化したアニマ元型の投影によって起こると考えていた。

    ユングは、こうした集合無意識は人類の進化の歴史が生み出したものなので、文化や民族の違いに関係のない、普遍的な構造だと理解していた。文化と歴史が異なっていても、同じ元型が繰り返し現れるとされる。

    ユングは、エジプト神話に登場する「男根をもつ太陽」という元型的なイメージを、自分の精神病の患者が、太陽を見ながら話しているのを見てこれを確信した。エジプト神話と精神病の患者は、明らかに同じ元型を共有していた。

    こうした例が随所で見られたことから、ユングはこのように結論した。

    他方、アンゲロプロス監督が問題にした民族や社会集団によってそれぞれ個別的に分化した集合無意識の構造と、それが作り出す再帰的な「カルマ」には、どの文化でも同じような内容が現れるという普遍性はもちろんない。それは、それぞれの社会と文化では集合的に共有されているものの、その境界の外ではまったく共有されない。逆に、異質なものとして排除の対象にもなる。

    社会集団の集合無意識、世界の感じ方

    個別的な「カルマ」を作り出す再帰的なパターンは、どの社会集団にも存在している。それは運命的なものだと言ってもよい。その社会で生まれ育ち、生きているどの人間も、この再帰的なパターンを身体に刻印しており、我々は遭遇するあらゆる出来事に、このパターンで自動的に反応してしまう。

    いわばこれは、我々の身体に奥深く刻まれた集合無意識のパターンだ。ということは、これから距離を置き、そのパターンそのものを客観的に認識するのは非常に困難だという性質がある。

    このように表現すると、社会集団の身体化されたパターンは、とても神秘的なものであるような印象を受けるかもしれない。だがかならずしもそうではない。ちょっと振り返るとこれは、我々の日常で随所に見ることができる当たり前の常識であることに気づく。

    社会の集合無意識とは、平たく言えば身体化された「世界の感じ方」のことである。これがどういうことなのか、他の文化の例を見るとよく分かる。

    アメリカの例

    たとえばアメリカだが、最近評判になったサンデル教授の「ハーバード大学熱血教室」にも登場するように、非常に幅広い政治的な意見と見方が存在する。キリスト教の価値を絶対視し、政府の個人の自由に対する介入を最小限にすることを主張する保守主義者がいる一方、社会の格差と歪みを是正する政府の所得再配分の機能に期待し、より平等な社会の実現を目標にするリベラリストも存在する。彼らの社会に対する見方は真っ向から対立している。

    保守主義者は、格差や貧困などの社会問題も基本的には個人の自己責任だと考える。なので、たとえば金持ちの寄付で社会保障を運営するというように、社会問題の多くは国民一人一人が是正に責任を負う社会を理想とする見方だ。一方リベラリストは、社会問題の是正を個々の国民の行動に期待するには無理があると見る。格差などの社会問題の原因は、拝金主義などのような行き過ぎた個人の行動にある。これを是正し、より安全な社会を構築するためには、個人の自由が行き過ぎないように、政府が個人をある程度コントロールする社会こそ理想だと考える。

    どれだけ話し合おうとも、社会に対するこの2つの見方が一致点を見いだすことはない。どこまで行っても平行線だ。

    しかしながら、この2つの社会観がどれほど異なっていようとも、両者はある「世界の感じ方」を共有している。それは、「社会は自由意思を持ち自立した個人の集合体である。そうした個人によるディスカッションを通して社会は構成されている。したがって、社会的現実を作り出しているのは人間の行為であり、どんな社会的現実も人間の行為で変更できるはずだ」という実感である。上の保守主義者とリベラリストの相違は、どのような社会を構成すべきかという認識の相違であり、基底部にあるこうした実感の相違ではない。

    これは、身体レベルに刻印された感じ方だ。この実感に違反するようなことが発生すると、意識のコントロールではどうすることもできない強い感情的な反応を伴って、「根本的に間違っている」という強い感情が表出する。

    アメリカ人は、人権が制限され少しでも独裁制の匂いのする政治体制には感情的に耐えられないのも、社会に対するこうした基本的な実感が身体に刻印されているからだ。一度この実感が表面に出てくると、理性的な対話はほとんど不可能となり、荒々しい感情のぶつかり合いになる。

    こうした身体感覚化した世界像が共有されている限り、社会は個人の集合体が構成しているのだから、社会は人間の意志によって変更可能な対象と感じられる。アメリカでは、社会改革の方向性を巡る延々とした議論が活発に行われるのも、こうした理由があるからだ。

    日本人の世界の感じ方

    では日本人の「世界や社会の感じ方」とはどのようなものだろうか?おそらく日本人のそれは、「社会は自由意思を持ち自立した個人の集合体である」とするアメリカ人の実感の対極にあるものだ。

    我々は世界や社会を、個人をはるかに越えた生きた有機体のように実感している。それは独自の意思と法則で変化している全体的ななにものかである。

    そのような全体性から見ると、それぞれの個人は全体性の表出にしかすぎず、自我として自立した存在ではない。それはむしろ個我と呼んだほうがよい存在だ。自我が、自由意思を持ち、周囲とかかわりながら社会を創出する主体者だとするなら、個我は、全体的ななにものかと紐帯でつながりながら、かりそめに個人として分化している淡い存在だ。

    しかし、我々が感じるこの全体的な存在は一神教の超越神ではない。超越的な神のような、言葉を使って全体的な存在を明示することを我々は拒んだ。なぜなら、真の全体性は、表出した個我にすぎない人間の言語で定義すると、存在の広大さは失われ、存在が穢れてしまうとおそらく我々は感じているからだ。言葉で明示するのではなく、象徴的に示唆することを通してそれを「感じてもらう」以外にないような存在だ。「お天道様」とか「お陰様」、また「世間様」や「ご先祖様」という言葉が象徴するのはこうしたものだ。

    おそらく日本人は、意識するとしないにかかわらず、世界や社会の存在をこのような全体性の振る舞いとして実感しているに違いない。

    してみると、日本人にとって社会の現実は、背後にある超越的な存在が作り出したものとして実感される。我々自身もこうした全体の一部である。全体性がある方向へと変化する場合、個我でしかない個々の人間は、変化の方向をいち早く感じ取り、それに合わせて一緒に変化することができるくらいで、ましてや、人間の意志で全体性には働きかけ、変化を押し止めたり、方向を変更することなどできるわけがない。特にこれを、個我の欲望という利己的な目的のために変更するのは許されない行為であり、不適切なのだ。

    こうした感じ方は、社会的な現実を変えるための直接行動に消極的な心理を生む。社会とは、人間の認識を越えた超越的ななにかの表出だ。これを人間の意志で変えるというのは、不適切な行為だとして考える前に感じてしまう。

    強靭な適応力

    一方視点を変えると、この世界の感じ方は、環境の変化に対する日本人の強靭な適応力の源泉にもなっていることに注目しなければならない。

    現実は背後にある超越的な存在が作り出したもので、我々自身もこうした全体の一部でしかないと実感されるとき、個我によって現実を変えることが断念されるだけではない。超越的な全体性が動いたと判断すると、変化の方向に取り残されないために、人々が一斉に同一方向に動き出し、変化した環境に適応する集団行動になるということも意味している。

    超越的な全体性は、「時代」「流れ」「とき」などとして象徴的に認識される。一度「時代」や「流れ」が変化したと見れば、政府や官僚、そして個々の国民に至るまで、それこそ一斉にこれまでの原理や原則をかなぐり捨て、プラグマティックに環境の変化に適応する努力が始まる。

    一方、超越的な全体性には、本来あるべき調和の取れた秩序の感覚が付随している。この秩序は、それぞれが個我の欲望に走ることなく、分をわきまえて行動し、やるべきことを行い、人様の迷惑にならないように、きちっと生活していると、超越的な全体性が人間のそうした行動に応えるかのように自然と具現する調和の秩序だ。

    もし、ときの政府や支配層が、「きちっとせず」、「やるべきことを行わず」、自分たちの集団の利害のみを露骨に優先した「人様の迷惑も顧みない」ように行動し、その結果として本来あるべき公共の調和を混乱させていると判断されたとき、人々は容赦のない怒りを政府や支配層に向けて爆発させ、方針の変更を強く迫った。特に、政府や支配層が「その座にいる資格のない人々」であると見られたときは、怒りの表出は一層激しいものになった。

    歴史を見ると、決して頻繁ではないが、歴史の結節点となるような時期には人々は激しく怒った。怒りの結果として、既存の制度の枠組みは変更され、新しい社会と経済の環境によりよく適合したシステムに置き換わった。

    戦後の昭和20年代に激発した首きりに反対する労働争議の嵐が起こったが、それを通して最終的には終身雇用制、年功序列、労使協調の雇用慣行が作られ、高度経済成長とバブル期に頂点を向かえる日本型経営システムの礎となった。

    さらに、70年代の激しい公害反対運動は、有毒ガスや工場廃液の排出を厳しく規制する多くの法律や、国に支援された自治体単位の環境回復プロジェクトを実現させ、当時の公害とは無縁な現在の生活環境を実現させた。

    このように、かつて我々は、環境の変化を「とき」や「時代」の変化として感じ取り、それに機敏に合わせるように一気に適応するか、または、既得権益や権力闘争などで政府や組織がまともに動いていないとき、怒りを露骨に爆発させてすぐに問題に解決を図るように迫り、その時代に適合した新しい制度やシステムを生み出していった。

    これが我々の強靭な適応力であった。そしてそれは、我々のみならず、政府自らがそのような機敏な適応力を発揮した。明治以降の歴史から見えて来るのは、政府も国民も巻き込んだ「強靭な適応力」である。

    「世界の感じ方」が作り出す社会のかたち

    そして、すでにこれまでの説明から明らかだろうが、このように文化や民族によって異なる「世界の感じ方」は、社会的な行動の本質的な違いを生じさせる。

    社会が自立した個人の集合体であると感じるアングロサクソン系の欧米文化では、社会の現実は特定の目的を志向する集団行動によって変更可能なものとして認識される。その結果、どの社会組織も限りなく目的合理的な形態になる。会社組織でも地域のプロジェクトでもなんでもそうだが、特定の現実の変更を考えるならば、もっとも効率的に現実に働きかけ、目標を実現できるように組織化する。

    また、どのように現実を変更すべきなのか決定していないときは、参加者が個人の立場で自由に意見を述べるディスカッションが延々と続く。ここではどのような結論になるかは事前にはまったく決めれていないので、特定の結論を導くための根回しや、コンセンサスを得るための事前の同意形成などはまったく行われない。

    すると政治や経済、そして教育や宗教という社会を構成するどの領域でも、異なった社会の見方を代表する陣営に分かれた議論が延々と続くことになる。これが彼らの社会の重要な特徴になる。

    日本人の「世界の感じ方」が作り出す社会のかたち

    一方、社会が個人を越えた超越的な全体の現れであると感じている日本では、そのような状況にはならない。超越的な全体は、どんな小さな場にも「宿る」ものである。それが宿ると、「和」と呼ばれる理想的な調和が実現され、その調和のなかでどの参加者も満足を得ることができる。

    基本的にこの調和的な「和」は、ひとりひとりがそれぞれの仕事に専念し、各人に与えられた役割をまっとうしていれば、自然に実現できるものと我々は確信している。そうすればすべてがおのずからうまく行くのだ。

    だが、だれかひとりでも自分に与えられた役割を怠っているものがいれば、この「和」としての調和は実現せず、超越的な全体性は宿ることをやめる。そしてどんな計画も失敗に向かって動き出す。どんなプロジェクトや計画でも、「和」に向かう調和が感じられないとき、我々は「なにかがおかしい」、「これはうまく行かないのではないか」と感じてしまう。そのように感じてしまうと、どんな計画も実際にうまく行かなくなってしまう。我々は、計画やプロジェクトが調和的な全体が感じられる「和」に向かっているのかどうか、極めて敏感である。

    全員が与えられた仕事をきちんとこなしているという状況では、この超越的な全体性が宿る「和」を実現するためには、どんな意思決定でも、参加者すべてが満足するように、意見を調整するだけでよい。そのためには、事前にコンセンサスができるようにきちんと根回しをすることが重要になる。そうするとこで、だれからも文句や不満が出てこない理想的な調和の状態が実現できる。このような状態になってこそ、「これでうまく行く」という実感を得ることができる。

    超越的な全体性が宿る「和」の調和は、あくまで超越的なものなので、だれか特定の個人の意思が反映されてはならない。その全体性は、「お陰様」であり「お天道様」などとして、個人の意思とは別の次元に存在していてしかるべきものである。これを個人の意思や、ましてや個人の欲望によって誘導することは絶対に禁止される。

    そのため、日本的な組織のリーダーは、あくまで調整役として機能し、個人の方針で組織を動かす上意下達式のリーダーとななり得ない。これは、どんな調和も超越的な全体性の現れであると感じる感性からすれば、これは当たり前である。実現された「和」としての調和は、自然に宿るべきものであって、リーダーとしての個人の意思があたかも署名されたように刻印されていたのでは、うまく行くべきものもうまく行かなくなる。

    組織のリーダーは、あくまでまとめ役と調整役でなければならない。言って見ればリーダーは、調和的な「和」の神様である超越的な全体性をその場に迎い入れるための神官のような存在だ。場の空気を読み、関係者全員の意見を調整して準備すると、理想的な状態が実現できるというわけだ。

    したがって、日本型の組織では、リーダーは強い権限をもって指示する存在ではない。リーダーは関係者の調整役にすぎないのだから、リーダーのいる場所は特定の意思が不在の「空虚な中心」となる。

    会社の小さなセクションからマンションの管理組み合い、そしてときの政権の内閣に至るまで、この原理は同一である。アングロサクソン系の上意下達に基づく強いリーダーではなく、まるでみんにかつがれる御神輿のような存在が率いる組織となる。

    これが、我々に特有な「世界の感じ方」が生み出す社会の現実である。

    刻印されたカルマ、不行動の原則

    他方、この「世界の感じ方」は日本社会に特有なカルマを生む。カルマとは、先のアンゲロプロス監督の映画「アレキサンダー大王」が象徴的に語るように、社会に刻印された逃れることが難しい再帰的なパターンのことである。このパターンは、上の「社会のかたち」と同じように、やはり「世界の感じ方」から生まれる集合的な行動から必然的に生まれてくる。

    日本人が社会を、超越的な全体性が宿る「和」の調和であるという感じ方は、「何をやっても変わらない」という、社会の現実に対する不行動の原則を生む。これは、社会的な矛盾を是正するために行動するよりも、現実を変更不可能なものとして受け入れ、諦めることである。

    社会が超越的な全体性が宿る場であるとしたのなら、どんな矛盾も理想的な調和状態である「和」に向けて調整され、解決されてしかるべきなのだ。ひとりひとりが与えられた職務と仕事に専念していれば、これは必然的に実現する。

    日本人の「世界の感じ方」からすれば、これは実に当然な実感だろう。この諦めの気持ちを共有し、社交的な会話では直接行動を呼びかける話題には一切触れないのが、日本では成熟した社会人とみなされる重要な条件である。

    もちろん3.11以降、このような余裕は許さない切迫した状況にある。この状況を打破するためには、我々が直接行動に訴えて、政府機能の中枢が既得権を最優先するグループにコントロールされ、実質的に機能不全を起こしている状況を変革しなければならない。そうしなければ、日本という国の継続さえも危ぶまれる状態に追い込まれることは間違いない。

    それはだれでもよく分かっている。しかし、直接行動を一瞬でも真剣に考えると、「何をやっても変わらない」という思いが、心の底から込み上げてくる。この思いが一度込み上げると、すべてのエネルギーが失われ、とてつもない諦めの気持ちが身体を駆け巡り、現実を変革する力が失せてしまうのだ。

    こうした心理は、多くの日本人が共有しているものだ。したがってそれは、特定の宗教やイデオロギーを信じた結果として形成されたものとしては考えにくい。個人の思想や信条にかかわりなく、日本人であれば身体的に起こってくる自然な反応だからだ。

    これは、繰り返される日常の行為を通して踏み固められ、身体に刻印された反応である。そうであればこそ、意思ではコントロールできないほど強い力を発揮する。ボールが顔に向かって飛んでくると咄嗟に避けようとするが、それと同じくらい咄嗟の自動化された反応なのだ。そうではないと、社会の現実を変えるために動こうとするときに沸き起こってくるこの諦めの気持ちの強烈さは説明できない。

    我々のカルマ、すべてがゲームのように進行する

    そして、これが日本のカルマとしての再帰的なパターンを生じさせる。この刻印された諦めの気持ちと不行動の原則を前提にすると、どんな社会的な問題もショーと化してしまう。そうした仮想現実を作り出すのが我々のカルマだ。

    それはこんなふうに上演される。

    まず、なんらかの政治スキャンダルや政治的な問題が明らかとなる。それは、政治家の不祥事、談合、癒着、公共組織の私物化などであったりする。

    そして、マスメディアの追求で、問題の背後には原因となる同じ構造が発見される。それらは、省庁の省益拡大と天下り先の確保を意図した官僚の暗躍、政務を官僚に依存し官僚に支配される政治家のあり方、そして公共の利益そっちのけで党利党略に奔走する政治家の行動などである。

    裏の事実が明らかになると、観客である国民の対応も決まっている。決まり切ったブーイングの嵐である。「いまの総理じゃだめだ」、「国民のことを考えるリーダーに変えるべきだ」、「官僚機構の改革こそ必要だ」、「政治利権を根絶しないとだめだ」、「党利党略の政治家は去れ」などである。どの野次も耳にタコができるほど聞いたものだ。どこの酒場でも聞ける。

    そして、こうしたブーイングが国民の間から激しく起こるたびに、謝罪とともに当事者が処分される。その後は「政治改革」、「制度改革」などあらゆるタイプの改革がスローガンとして掲げられ、その実行を約束する政治家の決意の発言が相次ぐ。「私は身命にかけて実行して見せます!」、「改革はかならず実行します!」などと連呼する声が聞こえる。

    さらに数カ月もすると、我々は同じ演目の上演に飽きてしまいブーイングの嵐も改革の連呼もピタッと収まる。すると、なにごともなかったように事態は進行し、だいぶ後になってから、結果的には状況は何も変わっていないことが明らかになる。そのときには新しい演目が上演され、観衆は同じブーイングを繰り返し、政治家も同じ決意を連呼しているというわけだ。

    これは、はじめからすべての筋書きが決まった演劇だ。社会的な現実は、演劇のシナリオに合致するようにマスコミの手によって様式化され、それに対する人々の反応もパターン化される。

    そして、いつものように出発点に戻り、政治家の首を付け替える。「真のリーダーはいつ現れるのか?」という変わり映えのしない声が空虚にこだましている。盛んになるのは「リーダーシップ論」だけである。

    これが、不行動の原則と「なにをやっても変わらない」という諦めが生み出すカルマのパターンなのだ。これは、どんなに大きな社会矛盾も、様式化した演劇のようなプロセスと化してしまうということだ。おそらく戦前から、この悪循環をずっと繰り返している。

    生み出され続ける無変化の日常という幻想

    そしてこのカルマ的なパターンでは、危険な幻想が生み出される。結局、社会的現実の提示がショーと化す限り、次第に忘却が進みリアリティーが失われてしまう。この結果、現実的であるはずの日常を生活者として生きることが、社会的な現実から目を背け、危機感をマヒさせることになる。

    これは、日常の現実に生きることが、実は凄まじい幻想の世界に生きることになるというパラドックスを生むのだ。この再帰的なパターンが生み出すものは、日常的な現実が無変化のまままったりと続いて行くという日常幻想の継続である。

    日本に生きる我々の多くは、この日常幻想にいわばからみ取られたような状態にあると言ってもよい。放射能漏れなどのような、どんな社会的な危機が起ころうとも、テレビはいつものお笑い番組やグルメ番組を流し続け、街のショッピングセンターには家族連れが買い物し、場末の酒場ではいつものサラリーマンが仕事の愚痴をこぼしている。こうした無変化の日常に籠もると、外部で何が進行していても、すべてが幻影のように見えてしまう。

    これが不行動の原則が生み出した日常幻想の姿だ。これにからみ取られると、社会的現実に対するリアルな現実感覚は喪失してしまう。この喪失は、さらに不行動の原則を強化し、社会問題ショーの上演を通した同じ循環を繰り返す。

    この再帰的なパターンこそ、日本社会に内在するカルマなのだ。それは、チベットのマニ教のマニ車のように、延々と繰り返されるパターンである。

    三島由紀夫の感じた違和感

    これが、身体に刻印された集合無意識の「世界の感じ方」であり、それがもたらす社会のかたちと再帰的なパターンとしてのカルマだ。

    「世界の感じ方」は、常識としか呼べないような自明の認識とともに心の奥底に組み込まれているので、普段の生活でその存在に気づくことは非常にまれである。それに気づくことがあるとすれば、別の文化との接触で感じる強烈な違和感を通してであることが多い。

    ところで三島由紀夫は、この違和感がどういうものなのか、死の2年前に語っている。1969年、三島は東大の900番教室で、当時全盛期にあった全共闘の学生たちとの対話に望んだ。



    この対話を見ると、全共闘の左翼学生の間ではある共通した認識が共有されていたことが分かる。革命を実行するためには、革命を遂行できる能動的な主体にならなければならない。革命の主体は、社会や歴史から強制された価値観や世界観などの誤った見方から目を覚まさなければならない。これには民族性の固執やナショナリズムも含まれる。なぜなら、そうしたものは、支配階級が社会を支配するために作り出した幻想だからである。社会が強要した幻想を打破し、真の現実に向き合うことが革命的主体となる前提である。そのような認識だ。

    この見方からすると、人間は、社会の幻想に取り込まれているものと、幻想を抜け出て、理論の力で社会の真実を見据えているものとに分類されてくる。東大の全共闘の学生は、社会の幻想から抜け出せなくなっているものを「歴史にやられた」と表現している。彼らの目からすると、天皇制国家の再建を唱える三島のような右翼は、社会の幻想から解放できずにいる「歴史にやられた」ものの代表のような存在として映った。

    そうした右翼学生の「結局は歴史にやられたんだろう」との問いかけに対し、三島は次のように答えた。

    「外国行きゃ分かりますよ。あなた、どんなにね英語しゃべってると自分は日本人じゃない気がするんです、英語が多少うまくなると。そして道歩いていてショウーウィンドウに姿が写ると、この通り胴がながでね、そして鼻もそう高くはないし、あ、日本人が歩いているだれだろうと思うと、てめえなんだな。これはどうしても外国行くと痛感するよ」

    三島は、日本人であるという民族的なアイデンティティーは、幻想でもなんでもなく、外国に行くとそれが実在していることを強く実感すると言いたいのだ。三島はこれを外見の違和感として表現したが、それは分かりやすくするための比喩的な表現だったのではないかと思う。自分が日本人でしかないという感覚は、外国語を話したときの違和感と居心地の悪さを通して強く実感させられる。

    身近な体験

    三島のインタビューが行われた1969年に比べると、海外の文化を体験する人々の数はかなり増えた。ということでは、異文化のコミュニケーションで、たとえようもない居心地の悪さと違和感を感じたことのある人は、確実に増えているはずだ。

    筆者は長い間企業の語学研修などに携わってきたので、こうした体験は豊富にある。ひとつよくある例を紹介しよう。筆者が実際に相談された例だ。

    新しい上司がやってきた。この人は相当に個人主義的な人物で、どんなに部下が忙しく働いていても、自分の仕事が終わるとさっさと帰ってしまう。これを隣のセクションのカナダ人に文句を言うと、「この上司は自分の仕事を終えたのか?」と聞く。「自分の仕事は終わっている」と答えると、「それではなんの問題もないのではないか?なぜ帰ったらいけないのか?」と逆に聞いてくる。「日本の会社では、上司の責任の一部は部下の面倒を見ることだ。部下が忙しく働いていたら、上司は手伝うべきだ」と答えると、「その責任は就業規則に書かれているのか?」と聞いてくる。「いや、それは書かれていない」と答えると、「では、部下の面倒を見るというのは仕事の一部ではない。だとしたら、君の上司が帰ることにはなんの問題もない。君が怒るのはおかしいのではないか?」と逆につめよられた。

    こうした体験は、異文化間のコミュニケーションでは日常茶飯事である。実際に体験をすると、強烈な違和感が込み上げてくる。相手は日本の状況をまったく理解していないという怒りさえ込み上げてくるはずだ。そうした感情は、自分でも制御できない身体的な反応であるだろう。

    この例では、上司がチームの「和」を調整することを主な役割にすることを当たり前と考える日本的な秩序のかたちと、それぞれ自立した個人が与えられた仕事にだけ責任をもち、他人の領分には入ってはならない欧米系の秩序のかたちが衝突している状況だ。「上司が早く帰る」という行動は、文化の異なる2つの秩序ではまったく違った意味になる。

    こうした強い違和感を通して、我々は身体に深く刻み込まれている「世界の感じ方」が存在していることを実感する。おそらく、三島を民族主義者にした背景には、こうした異文化体験特有の違和感があったのではないだろうか。

    グローバリゼーションに文化が逆襲する時代

    さて、これまで書いてきたことは特に珍しいことではない。一般的には、「文化の違い」の一言で済ませてきたことだ。身体に刻印された集合無意識の「世界の感じ方」などともって回った表現をしなくとも、「文化の違い」の一言で説明できるのではないかと思うかもしれない。

    次回に続く

    むちゃくちゃおもしろかった講談

    筆者は月刊ザ・フナイの連載を書いていたが、読者の方に講談師の方がおり、会う機会があった。筆者は講談はこれまで聞く機会がなかったが、実におもしろかった!今後はスピリチュアル系の講談をやるそうである。サイトに音声ファイルがあるので聞いて見たらよいだろう。

    田辺鶴瑛

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    コメント

    TPPに譲歩せよ、と釘を刺されたね

    センカクが日米安保同盟の管轄下と宣言したからにはTPP受け入れないと、また揺らされるかもね

    それ以前に中国に火が着いたから、こっちの方がヤバイかも

    安倍さんは、不味い状況になったかもね

    100年予測とメルトダウン

    いつも楽しく読ませて貰ってます。
    ストラトフォーが関与したとされる本「100年予測」では、2030年以降の世界はトルコ・ポーランド・日本が大国化するとあります。
    しかしこうした未来予測は数あれど、福島第一のメルトダウン・放射能は「予測外」だったと思います。
    もしストラトフォーを始め英語圏ソースが、福島第一原発事故の影響をどの程度のものと(未来にどう影響するか)とらえているかございましたら、触れてみてください。

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