チャーチルとヒトラーの和平案、死のルーン文字、ウクライナ
危機を乗り切るための高級雑学
チャーチルとヒトラーの和平案、死のルーン文字、ウクライナ
いま執筆中の「精神活動は物理エネルギー」は深遠だが内容は難解だ。こちろんこのシリーズはこれからも掲載し続けるが、ちょっとした箸休みとして、合間に異なったテーマの記事も書くことにする。
すでに掲載した「ヒトラーの真実」もそうだが、プレヤーレンのコンタクト記録には、歴史的な人物や出来事の隠された事実や真実が記されている。今回はそうしたもののうち、第二次世界大戦当時のイギリスの首相で、イギリスを勝利に導いたウィンストン・チャーチルの真実について紹介する。極めて興味深い内容がある。また、死のルーン文字などについてもある。
790回コンタクト
2018年7月29日(日)
https://www.futureofmankind.co.uk/Billy_Meier/Contact_Report_709
「プター:
チャーチルは、イギリスの政治家、ジャーナリスト、外交官で当時ワシントンの大使だったロージアン侯爵11世フィリップ・ヘンリー・カー卿が、ヒトラーから非常に有利な和平提案を受けたことをよく知っていたが、それはチャーチルの戦争計画やアドルフ・ヒトラーに対する憎悪と執念に完全に反していた。
彼はチャーチルの戦争計画を思いとどまらせることを強く望み、その結果、チャーチルに、その悪辣で戦争促進的な計画を我慢して放棄し、平和のための努力を失敗させるような否定的な活動をしないようにと助言した。
アメリカのルーズベルト大統領もこの件に関与しており、ドイツの独裁者の懸念に同調し、平和を維持し戦争を回避するために必要なことをする、その際、アメリカはナチスの政策に干渉せず、彼らの戦争支持者にならないように協力するべきだという考えであった。
だから、アメリカのルーズベルト大統領も、和平の申し出を軽々しく拒否すべきではないという意見と懸念を抱いていた。
しかし、この事実とその周辺は絶対に秘密で、公表されないことになっていたので、イギリスの下院にも知らされず、イギリス国民にも、世界の公衆にも知らされず、アメリカがヨーロッパで活動する前に、ドイツ国民がアメリカの助けを借りて密かに和平を望んでいたことは、公表されることはなかった。
また、チャーチルは戦争屋だったために、ドイツ軍の侵攻の際に自分が捕まって拷問を受けるといった混乱した夢も見ており、それが彼に惨めな恐怖を与え、スペインやスウェーデンに戦争の味方を求めるようになったことも事実であった。
しかし、ヒトラーの戦争の現状から見て、イギリスへの侵略が行われないと確信したとき、ヒトラーがイギリスの限りない敵であることをイギリスの下院と国民に納得させるために、彼の戦争煽動演説はますます挑発的になり、ひどくなり、狂信的にさえなった。
そして、このようにして、彼は戦争主義のプロパガンダを続けたが、彼もまた、ジョセフ・ケネディと同様に、ヒトラーがイギリスを攻撃することなど思いもよらなかったように、イギリスに対して何の敵意も持っていないことをよく知っていた。
・1923年のミュンヘン一揆
その目的は、ナチスの党首、正確にはアドルフ・ヒトラー、エーリッヒ・ルーデンドルフやその他の関係者のもとで、ベルリンの政府を武装蜂起によって退け、国家独裁の形で自ら権力を掌握することだった。
しかし、これは徹底的に失敗した。急進的な右翼勢力は、最初はヒトラーと同盟していたのに、すぐにヒトラー、彼の思想、彼のクーデター計画から完全に距離を置いてしまったからである。
その結果、彼はバイエルン州政府および行政の右派保守層を取り込もうとしたが失敗し、彼らはクーデター計画に参加せず、ライヒスヴェールも参加しなかったので、クーデター計画は失敗し、「フェルトハーンハレへの行進」もバイエルン州警察によって力ずくで止められ、20人の死者を出した。
ヒトラーはその後投獄されたが、裁判の後、1924年12月20日に釈放された。しかし、長い目で見れば、プーチの試みはヒトラーにとっても、バイエルンにとっても結果をもたらしたのである。
・失敗したミュンヘン爆撃
しかし、ドイツに対する戦争を煽り続けたチャーチルについては、再び「ヒトラー帝国」に対する新たな攻撃を命じ、今度は「ビアホール一揆」の記念日の結果としてミュンヘンに空襲をかけ、50機以上の爆撃機で攻撃、ナチスの対空砲火によって11機のイギリス機が撃墜されている。
しかし、ベルリン爆撃と同様、ミュンヘンでも大きな被害は出なかったため、全体としては失敗に終わった。そして、爆撃によって演説中のヒトラーを殺すというチャーチルの考えは、希望的な幻想に過ぎなかった。なぜなら、爆撃が行われたとき、アドルフ・ヒトラーはミュンヘンにまったくいなかったからである。
このことがチャーチルを非常に悩ませたので、彼はすぐにこのミュンヘンでの無意味な攻撃に続いて別の攻撃を行い、それによって自分の汚れた威信を固めることができると誤解したのである。
そこで彼は、ロシアの外相モロトフがヒトラーと対話するためにベルリンに到着した時期にベルリンを爆撃すれば、何か驚異的なことが達成できると妄想して、ベルリンの新たな爆撃を命じた。
そこでチャーチルは、愚かにも「モロトフを迎える」と宣言したように、ベルリンへの大規模な爆撃を命じ、50機以上の爆撃機にベルリンの大部分を廃墟にするよう命令したが、最初の爆撃やそれ以前の爆撃と同様に、彼らの爆弾はほとんど損害を与えず、約20機の爆撃機がナチスの対空射撃によって撃墜されてしまった。
さらに、爆撃機の乗組員のほとんどが指定された目標を見つけることができなかったことも、この時のケースであった。
しかし、残念ながら学校と病院に命中してしまい、これをきっかけにヒトラーはイギリスに対して激昂し、一連の報復行動を開始することになる。
・ピースサインは実は死のルーン文字
しかし、死のルーン文字によって偽りに表現された平和の無意味なシンボルについては、以前にもお話ししましたが、このシンボルによって平和が促進されるのではなく、争い、いたずら、不幸、恐怖、戦争、反乱、死、破滅が促進されることがわかりました。
このシンボルが誕生して以来、このことは何度も何度も証明されてきたし、これからも証明され続けるだろう。地球人が無意味に理解していないこの死のシンボルは、偽りの平和のシンボルとみなされ、それゆえに誤用されている。